※ 参考文献・・・和光市立白子小学校開校100周年記念誌・創立130周年記念誌・創立140周年記念誌

開校前

  • 明治改元当時、この辺りは白子村・上新倉村・下新倉村という三つの村がありました。 

  • 白子村では、冨澤太郎左衛門という方が塾を開いて学問を教えていました。門下生が偲んで建立した筆塚が地福寺境内にあります。 

  • 明治5年に学制が頒布され、全国に小学校が設置されはじめました。白子村では、寺子屋が白子坂上(正確な場所は不明)に置かれ、柳下陽眠氏(後の白子学校初代校長)が担任し、児童60~70名程度が学んだようです。

白子学校開校

  • 明治7年8月、寺子屋廃止され同場に白子学校が開校しました。児童数は明治19年に至るまでの間、常に80~90名程度と記録されています

  • 同じく明治7年8月に、上下新倉村合同設立で、新倉学校(現・満願寺の場所)が設立されました明治13年には、新倉学校から上新倉学校が分離し、この辺りには白子・新倉・上新倉の三つの学校ができました。

尋常小学校東輝学校

  • 明治政府の町村合併の方針により、白子・上新倉・下新倉の三つの村は、「白子村連合戸長役場」の管轄下におかれます。正式な町村制度ではないものの、一つの組織として管轄されることになり、それに従い、学校も統合されます。そして明治19年10月17日に「新座郡第四学区 三村連合尋常小学 東輝学校」が開校します。場所は、現・下新倉氷川神社境内です(上写真)。コの字の校舎で、教員室1、教室6、小使室1で建坪は132坪。校長は秋山長如氏でした。 

  • 明治20年10月に安田権次郎氏(上写真)が校長に着任。以来、30年以上、校長を務めました。  

東輝尋常小学校~東輝尋常高等小学校~白子尋常高等小学校

  • 明治22年に市町村制が実施され、白子村・下新倉村は合併し、白子村になります。この時、東輝学校は、東輝尋常小学校と改称されました。上新倉村は独立し、新倉村となったため、新倉村の児童は、東輝尋常小学校を立ち退き、新倉学校に移りました。

  • 明治27年、高等科の併置が認可され、東輝尋常高等小学校と改称しました。今でいう小中一貫または、小中併設校のような感じです。 

  • 明治31年10月8日に東輝学校初の修学旅行で東京に行ったという記述があります。おそらく当時、荒川を船で往復したと考えられ、目的地は上野ではなかったかと思われるということが100周年記念誌に書かれています。 

  • 翌明治32年には、初めての運動会が吹上観音境内で行われたそうです。修学旅行は毎年行われていたようですが、運動会は6~7年に一回行われていたようです。 

  • 明治40年に義務教育制度が4年から6年に延長されました。明治41年4月15日には、白子尋常高等小学校と改名しています。

  • 義務教育年限の延長で教室数等が不足。そのため、明治43年5月5日に、今の白子小学校の場所に分教場(分校)が設立されます。校舎の様子が図面として残っています(上写真)。100周年記念誌記載の卒業生の記録によると、分校(現在の白子小学校の場所)では1年生から3年生が学び、本校(現・下新倉神社境内)では4年生から高等科の児童が学んだようです。下写真は明治41年12月の東輝学校尋常科の卒業記念写真です。

  • 明治43年頃、当時、白子小の先生だった高橋浜太郎先生(作詞)と田中玉造先生(作曲)で白子村の歌(下写真)が作られました。全部で16番まで歌詞があり、当時の白子村の様子が表わされています。当時は校歌が制定されてなかったため、校歌のような役割があったと思われます。

  • 大正10年8月4日・5日に、赤羽工兵第一第二隊が来校、現在の正門の下の道を切り開いたと100周年記念誌にあります。おそらく、今の百段階段(下写真)と思われます。

  • 大正11年6月25日、ほぼ現在の場所に建てられた木造かわらぶき一階建ての校舎が完成したため、全児童が新しい校舎に引っ越しました。二人一組で各自の勉強机を持って行列を作って移動したそうです。なお、この新校舎の工事の際、地下から土器が発掘されました。現在は和光市役所に展示されています。(下写真)陸鷲・海鷲(下写真)が植えられたのもこの頃です。

  • 大正14年5月、現在の体育館の近くまで校舎増設。この年、大石真が誕生しています(下写真)。 

  • 大正15年、清水かつら(下写真)が白子村に移住。以来昭和26年に没するまで白子の地で暮らしました。 

  • 昭和7年 大石真が白子小学校に入学。 

  • 和10年頃、清水かつらが白子小学校で、児童の詩の指導をしています。文集「ふゆめ」に収録。​ 

 

 白子国民学校~大和町立白子国民学校

  • 昭和16年、国民学校令が公布され、白子国民学校と改称しました。

  • 昭和18年、4月5日、白子村と上新倉村が合併、大和町となりました。そのため、大和町立白子国民学校と改称しています。  

 大和町立白子小学校

  • 昭和20年終戦。新しい学制となり、大和町立白子小学校と改称しました。 

  • 昭和21年、清水かつらは、戦後の白子の子ども達のため、白子文化会「ひまわり子供会」の会長となり、「幸福の王子様」の劇を指導、白子小講堂で公開しました。大石真もひまわり子供会のメンバーでした。 

  • 昭和23年、「みどりのそよ風」がラジオで放送され、全国に広がりました。みどりのそよ風の風景は白子近辺の自然風景と言われています(下写真は白子小学校の「みどりのそよ風」の歌碑)。 

  • 昭和24年 PTAが発足しました。初代会長は柳下浩三氏です。 

  • 昭和30年1月1日、校旗、校歌が制定されました。 

  • 昭和35年4月、第三小学校が発足。白子小から百数十名が第三小学校に異動しました。 

  • 昭和35年7月、現在のプールが完成しました。 

  • 昭和36年12月から完全給食が開始。給食室が完成しました。 

  • 昭和39年9月、鉄筋コンクリート3階建て校舎着校。現在の西校舎に当たります。 

  • 昭和40年、第四小学校が発足。二軒新田白子三区向山、越後山、白子二区地区の白子小学校の児童が異動しました。 

 和光市立白子小学校

  • 昭和45年10月31日、市制が施行され、大和町から和光市となりました。それに合わせ、現在の和光市立白子小学校と改称しました。 
  • 昭和46年11月、校長室他9教室が増築されました。現在の東校舎に当たります。 
  • 昭和47年、開校記念日を10月17日に改定しました。明治19年10月17日に「新座郡第四学区 三村連合尋常小学 東輝学校」が開校したことに由来します。これ以前の開校記念日は10月10日(大正11年に新校舎が落成したことから)でした。10月10日が、体育の日とかぶることも開校記念日移動の理由の一つのようです。 
  • 昭和48年2月、現在の体育館が落成しました。5月には東校舎が増築されました。 
  • 昭和49年、開校100周年を迎え、記念式典と記念誌が発行されました。
  • 昭和60年 ミニ動物園が開園(下写真)。当時はヤギ等を飼っていたようです。
  • 昭和62年 職員玄関前の大時計が設置されました。 
  • 平成5年 新しい給食室が竣工されました。 
  • 平成14年 旧門柱を現在の場所に移設しました。元は百段階段の下にあったものを移設したようです(下写真)。 

  • 平成16年 正門のある清水かつら歌碑が完成しました。また西校舎屋上に大石真の作品に由来する風信機(下写真)を設置しました。 
  • 平成18年 南校舎が完成しました。 
  • 平成26年 西校舎壁面にみどりのそよ風の壁画(下写真)が完成しました。
  • 平成28年、下新倉小学校が発足。前年度、26学級、児童数782名から17学級491名に減少しました。
  • 令和3年、郷土資料室を整備しました(下写真)。